プラセンタの日本史

1930年代に旧ソ連のフィラートフ博士が「組織療法」としてプラセンタを使用したこと現代のプラセンタ療法の基礎となったことは、お話しました。

それでは、日本ではいつ、どのようにしてこのプラセンタ療法が流通したのでしょうか?


日本には江戸時代にプラセンタを漢方薬「混元丹」という名で使用したという記述が残っています。「混元丹」は金沢にある創業400年以上の老舗の薬屋、中屋商店の生薬配合滋養強壮剤との事ですが、現在は「混元丹」にはプラセンタは入っていないとの事です。


では、東洋医学ではなく、西洋医学として日本にプラセンタ療法を広めた人物はいったい誰なのでしょうか?



【日本のプラセンタの祖 稗田憲太郎博士】

稗田憲太郎博士は明治31(1898)年10月22日にこの世に生を受け 昭和期の病理学者、寄生虫学者として活躍しました。敗戦で八路軍に投じ、帰国後久留米大学で大学教授として教鞭を執し、和書に「医学思想の貧困」などがあります。

稗田博士は第二次世界大戦終了後、中国にてフィラートフ博士の「組織療法」に出会い、日本に帰国し、久留米大学の教授を務めながらプラセンタの利用に関する研究を始めたのです。
そしてその後日本に様々なプラセンタ製剤や注射薬などを広め、その結果、現在の注射剤や内服薬、健康食品、化粧品など、誰もが手にしやすい形へと変わっていったのです。


稗田博士は人間の生命現象はそれが生理であっても病理であっても脳髄に支配されないものはない。疾病の特徴が終末臓器や組織に表現せられるので、細胞病理学者は抹消の変化のみを見て、そこに病気の本態があると考えてきた。
細胞病理学の上に発達した現代治療医学も抹消の病変を治療することに努力して来た。
斯くて難治性疾患は依然として難病として残っている。
胎盤漿が既往に於いて難治と言われて来た多くの疾病に有効であるのは、胎盤漿が脳髄に強く働いて局所の病変の改善を来すためである。
と、述べています。【稗田憲太郎先生著「胎盤漿療法」より】


【根本から治療していく、と言う考え方】

表面的な病気治療ではなく、局所の病変の改善を行って、病気を治療する。
付け焼刃ではなく、元から断つ。
そんな治療法がプラセンタでかなうことを物語っています。

これは病気に限らず、美容にも同じことがいえるでしょう。
表面的な基礎化粧品などでの美容方法はもはや付け焼刃でしかありません。


体内の細胞から改善を行うことで、美容効果を十分に引き出すことが出来るのです。
健康と美容は表裏一体です。
体の細胞からプラセンタで改善することで、すべての助成が願う美しさが手にはいるというのも稗田博士の研究の上での、理論にのっとった方法なのですね


 
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